(旧)万有製薬の沿革

(旧)万有製薬の沿革

戦中・戦後の発展-1937~1952年-

1952年 2月 Merck & Co., Inc., Whitehouse Station, N.J., U.S.A.と販売提携(副腎皮質ホルモン製剤「コートン錠」)
1946年 5月 ペニシリン公認製造許可第1号を取得

ペニシリン製造許可第1号を取得

戦争とは病気との闘いでもあります。戦地では、傷兵たちが毎日、破傷風やガス壊疽などによって命を奪われていきました。人体の細胞や血液も損なわずに、病原菌だけを消滅させる手立てはないものか・・・。軍の病院で働いていたアレキサンダー・フレミングはそれに応える黴を発見し、その黴の培養液を「ペニシリン」と名づけました。イギリスで本格的になったペニシリンの医薬開発は、あと数日しか生きられない患者を延命するなどの試験成績を出していましたが、ドイツ軍の空襲と戦時体制で実験用のガラス瓶にも事欠くありさまとなっていました。アメリカでも、戦争による傷病兵の治療のために、優れた薬剤の製造は軍事戦略に組み込まれていました。製造のために、アメリカで最初のペニシリン委員会が開かれたのは1941年(昭和16年)、太平洋戦争勃発の年です。

ペニシリンの作業日誌
ペニシリンの作業日誌

こうしたペニシリンの開発の動きは戦時下では日本に届きませんでした。しかし、科学者の目は鋭く、1943年末、陸軍医少佐の稲垣克彦氏が、雑誌『フォーチュン』で初めてペニシリンの存在を知りました。1944年、陸軍省医務局はペニシリン研究会を発足させ、総合プロデューサーの立場に稲垣氏、研究の一線には東京大学伝染病研究所の梅沢浜夫博士がつきました。軍部はただちに国産ペニシリンの製造を命令しましたが、ペニシリンを本格的に大量生産するにはタンクに菌を集めて培養する必要があります。そこで梅沢博士は萬有製薬に白羽の矢を立てました。萬有製薬はたゆまぬ努力により製造を成功させ、ペニシリンの国産化にこぎつけました。

ペニシリンの公認製造許可第1号
ペニシリンの公認製造許可第1号

ところが、戦後、連合国総司令部(GHQ)の占領下になると、GHQによりペニシリンの発売禁止令が出、販売開始の条件を「1アンプルを3万単位とする」「国家検定試験に合格した製品であること」の2つとしました。萬有製薬は、規定通りのペニシリンをつくり、国家検定試験にも合格し、ペニシリンの公認製造許可第1号を厚生省から取得するに至りました。これが、日本で最初の公認ペニシリンで、戦時中からのたゆまぬ研究開発が実を結ぶこととなりました。

コルチゾン合成のNo.1ロット
コルチゾン合成のNo.1ロット

Merck & Co., Inc., Whitehouse Station, N.J., U.S.A.との関係の始まりは副腎皮質ホルモン製剤「コートン錠」の販売提携。日本における独占販売権を取得。

「コートン錠」(一般名:酢酸コルチゾン)は、Merck & Co., Inc., WhitehouseStation, N.J., U.S.A.が合成に成功した最初の副腎皮質ホルモンで、発見者のケンダールらはノーベル賞に輝きました。「歩行困難なリウマチ患者が自由に歩けるようになった」という当時としては劇的な効果は、日本の製薬会社の関心の的となり、その独占販売権をめぐって有力製薬会社間での競争となりました。

当社は競合企業の中で決して大きいとはいえませんでしたが、同社の厚い信頼を得て、コルチゾン製品の一手販売権を獲得することになりました。

 

 


 
 

MSD所在地・地図

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